主の昇天祭日の第1朗読、イエス、天に上げられる、使徒言行録1・1-11 ― 2012年05月18日
主の昇天の出来事によって、弟子たちとイエスとの関わりは一つの転機を迎えます。
弟子たちの自立を促す、この出来事はまさに、聖霊の派遣の序曲、教会活動の幕開けを告げるものでもあったのです。
今日の第1朗読は、使徒言行録のはじめの部分です。
はしがき(1・1~2)として、後援者テオフィロのために、第一巻(福音書)を書いたことを回顧し、その第一巻の結びを補足し、復活したイエスが40日間使徒たちと生活を共にして、聖霊降臨の約束と高挙の記事にして、使徒言行録の序文とします。
◆はしがき
1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
◆約束の聖霊
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
◆イエス、天に上げられる
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
※ すなわち聖霊による洗礼(ルカ1・8)を受けること。すると使徒たちは、力に満ちて、エルサレム、ユダなどイスラエルのみならず、サマリアの全土を経て、全世界の果てまで、証人となるという約束です。
昇天するイエスを呆然と見上げていた弟子たちに、白衣の天使が現れて終末には必ずキリストとして再臨することが告げられます。
ご昇天の出来事は、キリストの生涯の完成であるとともに、聖霊降臨により教会活動がはじめられる前提でもあるのです。
なお、イエスが死んでからほぼ40年後、ローマ帝国に反乱したイスラエルは、第一次ユダヤ戦争(67年~70年)に敗れ、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊され、ユダヤ教は大打撃を受けます(ユダヤ教の一分派であったエルサレム原始教会はその反乱に加わることなく、その以前すでにエルサレムから姿を消していましたが)。
この大破局にいたる激動の時代に、イエスの教えは離散ユダヤ人のネットワークを通して、またたく間にパレスチナから、近隣諸国はもちろん、遠くローマや小アジアまで広がります。
この時期(90年代後半)、第一巻でイエスの時代を書いた福音記者ルカは、イエスの死後ユダヤ戦争の勃発前まで、そのほぼ30年間を、イエスの時が終り、エルサレムにおける教会の始りとして、第二巻(使徒言行録)を書きました。
主の昇天祭日の第2朗読、教会の一致、エフェソ4・1-13 ― 2012年05月17日
信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一であるから、(ユダヤ人教会も異邦人教会も)互いにキリストの体として一致を保ち、キリストに満たされた共同体に成長するように勧めます。共同体は分裂の危機があったのでしょうか。
◆キリストの体は一つ
4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
4:8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
4:9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
4:10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
※ パウロは、上られたキリストと降られたキリストとが一つの同じ方であると述べます。この意味するところは、天に昇られた栄光のキリストが、この地上を歩まれたキリストと同じ方であり、今も人々を愛し、罪人を許し、苦しんでいる人々をいやしてくださるお方であるということです。
パウロにとってイエスの昇天は、聖霊により世界のあらゆるところにおられることによって、キリストが充ち満ちた世界を示されるということを意味しているのです。
そして、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」とパウロは言います。
なお、エフェソ書は、コロサイ書と同じように、教義的な前半(1・1~3・21)第1部と倫理的な後半(4・1~6・24)第2部に分かれ、敬虔な信仰生活を異邦人信徒に対して呼びかけています。
ユダヤ人キリスト者が90年代、コロサイ書を参考にして書いたといわれ、より完成されたキリスト教の標準的な要理書として、各異邦人教会で読まれたようです。
主の昇天祭日の福音、天に上げられる,マルコ16・15-20 ― 2012年05月15日
最初のマグダラのマリアへの出現の後、二人の弟子に現れたイエスは、11人の使徒たちに現れて、使徒の使命を命じます。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
※ 全世界への宣教を命じたイエスは、皆の見ている前で天高く挙げられます。主の昇天です。
主の昇天の出来事によって、弟子たちとイエスとの関わりは一つの転機を迎えます、
この出来事はまさに、聖霊の派遣の序曲、教会活動の幕開けを告げるものでもあったのです。
なお、マルコ福音書では、本来女性たちの「空の墓」発見で唐突な終わり方をしてます。
日曜日の朝早く、三人の婦人が墓に行くと、蓋であった大きな石は転がされて、イエスの遺体は無くて、代わりに座っていた天使の若者が言います(16・1~6)
天使は、ガリラヤで復活したイエスに会えるといいます。
しかし、婦人たちは恐怖のあまり、正気を失い、弟子たちにも、誰にも言えなかった。なぜ、それほどイエスの復活が恐ろしかったのでしょうか。
また、弟子たちはガリラヤで復活したイエスに出会ったのか。マルコは何も書いていません。
これらの大きな疑問をのこして、マルコ福音書はここで唐突に終ります。
この唐突な終わりに満足しない後代の人は、結び1(16・9~20、イエスの出現と昇天)を追加します。
また、より簡潔な、結び2(婦人たちの報告と福音宣教)もあります。何れも補足(16・9~20)は、後代の書き込みなのです。
聖マチア使徒の祝日・5月14日の聖書 ― 2012年05月12日
今日の福音朗読は、使徒マチアの祝日なので、特にヨハネ福音書「愛の掟」が読まれます。
ヨハネ福音書では、最後の晩餐に相当する箇所で、第二の告別説教といわれる箇所の「イエスはまことのぶどうの木」の続きです。
使徒とされた者は、特にイエスとつながった葡萄の枝でなければなりません。
イエスは、イエスの愛の喜びにみたされるために、互いに愛し合いなさい(15・11~17)と命じ、更に大きなキリストの愛を教えます。
イエスの犠牲こそ、最高の愛なのです。
◆愛の掟、ヨハ15・9-17
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
※ イエスが命じたように、同信の兄弟を愛してこそ、イエスの友となるといいます。
このイエスとの親密な関係は、イエスの選びであり、あなたに対する恵みであり、神の愛なのです。また、宣教のため、祈りの実現のために、あなたを選んで任命したのです(15・16)。
「5:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と、愛の掟を繰り返して「ぶどうの木」の譬えを終わります。
使徒マチアの祝日の朗読、マティアの選出、使1・15-17,20-26
今日は、使徒マティアの祝日なので、第一朗読はその関連箇所が読まれます。
イエスの弟子であった12使徒の一人。イスカリオテのユダがイエスを裏切ったので、ペトロたちは、その後任を弟子の2人のうちから選ぶことにします。
◆マティアの選出、使1・15-17,20-26
1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。・・・・・・・・・
1:20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
1:21 -22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、1:24 次のように祈った。
「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
※ このように、弟子たちは集まって熱心に祈ってから、くじを引くと、マティアがあたります。主の復活の証人となることが、使徒の任務です。
マティアについては、はっきりしたことはわかっていないが、彼は最初からイエスの弟子となったユダヤ人であった。
マティアは、エルサレムからエチオピアまで宣教の足をのばし、その地で殉教したといわれる。遺骨は、4世紀にローマに運ばれ、後にドイツのトリール司教座聖堂に移された(「Laudate」女子パウロ会より)。
復活節第6主日第1朗読、異邦人の受洗、使徒言行録10・25-26、34-35、44-48 ― 2012年05月11日
パレスチナを巡回中のペトロは地中海沿岸付近で数々の奇跡を行い、革なめし職人シモンの家に滞在していました。
その時のこと、カイザリアの「神を畏れる」百人部隊長コルネリウスは、天使の幻を見ます。
そして同じ時、ヤッファにいたペトロも不思議な幻を見て、丁度迎えにきていたコルネリウスの部下に案内されてカイザリアに行きます。
そして、交際が禁止されてい異邦人である百人隊長のコルネリウスの家に入ります。
◆ペトロ、ヤッファで幻を見る
10:25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
◆ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
◆異邦人も聖霊を受ける
10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。
※ 律法では交際が禁止されている「汚れた」外国人であるコルネリウスの家に入り、訪問した理由を話します(10・24~33)。
神はわたしに、「どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならない」と、ユダヤ人も異邦人も差別しないといいます。
ペトロがこう言うと、コルネリウスも天使により、ペトロの教えを聞くよう命じられたことを話したので、ペトロは集まっている人々に、イエスの福音を告げます(10・34~43)。
ところがそのさ中、不思議なことに異邦人である彼らに聖霊が下ったのです。
割礼を受けたユダヤ人だけに下っていた聖霊の恵みが、無割礼の異邦人にも注がれたのです。これを見たペトロは、水の洗礼を施します。
最初の異邦人の受洗(10・44~48)です。聖霊の洗礼により、割礼なしのユダヤ教イエス派の信者が誕生したのです。
初代教会にとって、無割礼の異邦人を教会に受け入れるかどうか、受け入れるとすれば、どのような条件で、ということは、非常に重大な課題でした。
復活節第6主日第2朗読、神は愛,一ヨハネ4・7-10 ― 2012年05月09日
お互いに愛し合うこと。これがイエスの教えた新しい掟ですが、その根源は神が愛そのものであるからだと教えます。
裁きの恐ろしい神のイメージが旧約の律法ですが、それは御子イエスを信じないからです。
◆神は愛
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
※ 神の本質は「愛」であり、その、神の愛の根源を明らかにします。それは、キリストの受肉と、贖罪の神秘に基づきます。イエスを信じることによりその神秘が明らかになります。
復活節第6主日福音、イエスはまことのぶどうの木,ヨハネ15・9-17 ― 2012年05月08日
)の続きが読まれます。
イエスはぶどうの木であ、弟子たちはその枝であると、イエスと弟子たちの一体性の譬え話でした。愛の掟を守ることが、イエスに繋がる枝なのです。
ですから、イエスの喜びにみたされるために、互いに愛し合いなさい(15・11~17)と命じ、更に大きなキリストの愛を教えます。友のために命を捧げたイエスの犠牲こそ、最高の愛なのです(15・13)。
◆イエスはまことのぶどうの木
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
※ イエスが愛したように、同信の兄弟を愛してこそ、イエスの友となるのです。
このイエスとの友人関係は、「5・16 あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」のであり、あなたに対する恵みであり、神の愛なのです。また、宣教のため、祈りの実現のために、あなたを選んで任命したのです(15・16)。
「5:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と、愛の掟を繰り返して「ぶどうの木」の譬えを終わります。
復活節第5主日第1朗読,サウロ、エルサレムで使徒たちと会う,使徒言行録9・26-31 ― 2012年05月04日
厳格なファリサイ派として、エルサレムのキリスト者と迫害していたサウロは、ダマスコに向かう途中でイエスと出会い劇的に回心して、アラビアで独自に宣教を開始していましたが、使徒たちと会うためエルサレムに上ってきます。
◆サウロ、エルサレムで使徒たちと会う
9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
9:27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
9:28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
9:29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
9:30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
※ 迫害者の前歴で怖れられていたパウロは、やっと、バルナバの紹介でエルサレムで使徒団に会うことが出来ます。
エルサレムの教会では、受け入れられなかったものの、パウロは、バルナバの案内で使徒たちに出会い、ギリシア語を話すユダヤ人と議論します。しかし、彼は反対され殺されそうになったため、信徒たちは、彼の故郷タルソスに送りだします。これが当時のパウロに対するユダヤ人教会の評価でした。
こうして、先ずパレスチナ一帯のシナゴークにイエス派の布教が成功したことが記されます。およそ40年ごろまでの状況だと思われます。
次週は同じくパレスチナの内部での、使徒ペトロの異邦人への宣教報告です。
なお、使徒言行録とパウロ書簡(パウロが記す自伝、1コリ15・8、ガラ1・15~2・1)との違いがあります。
パウロの、ガラ1・15~2・1によれば、パウロは回心後、アラビア→ダマスコ→第一回エルサレム→シリア、キリキア→第二回エルサレム(使徒会議)であり、
第一回のエルサレム訪問も、ペトロとヤコブ以外誰にも会わず、バルナバの紹介もない。バルナバとは14年後の第二回エルサレム訪問(使徒会議)の時、同行したとしています。
復活節第5主日の第2朗読、愛の実践と神への信頼、一ヨハネ3・18-24 ― 2012年05月03日
ヨハネ教団を去った分派は言葉や口先だけで、困っている兄弟を助けなかった。わたしたちは、行いをもって誠実に愛し合おう(3・18)と、兄弟愛を強調してその実践を再確認します。
◆神への信頼
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
※ 神の掟を実践することにより、「神がわたしの内とどまり」、神のとの関係を、平安に保つことが出来るのです。
「神がわたしの内にいて、わたしが神の内にいる」この一体感は、神が与えてくださった霊によって分かるといいます(3・24b)。
心の平安は、兄弟を愛することによって得られるのです。
復活節第5主日の福音、イエスはまことのぶどうの木、ヨハネ15・1-8 ― 2012年05月02日
イエスはまことの「ぶどうの木」であり、弟子たちはその枝であると、イエスと弟子たちの一体性の譬え話をします。
◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
※ 神を離れ、イエスと切れていては何もできないという自覚、イエスの愛といつくしみに目覚め、イエスに信頼してすべてを任せることにより、イエスのうちにとどまることができるようになる。
そうすれば豊かな恵みを受け、あなたたちが豊かに実り、イエスの弟子となる。
このことにより、父である神が輝き出て、神を賛美することになる。とややこしい言い方ですが、
要は、今日の福音は、イエスこそ私たちがそこにとどまり、実を結ぶ真のぶどうの木であり、イエス以外に真のいのちの源はないというのです。
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